崩れゆく「ヨーロッパ統合」の夢

全人類を結ぶ「私たち」の根拠はどこに

つい最近まで、ヨーロッパはグローバル時代における地域統合の旗手であり先駆者でした。しかし、英国のブレクジット(Brexit)に始まり、各国での反EU・極右愛国主義政党の台頭、さらにはカタルーニャの独立騒動が勃発するなど、ヨーロッパは社会的分断と混乱の象徴に堕してしまっています。

2〜3年前、統合主義者は楽観的な統計を示していました。若い人たちの間で「英国人」「ドイツ人」などと同じレベルで「ヨーロッパ人」としての意識が育っている、と。しかし、現実は「カタルーニャ人」「スコットランド人」など、すでに近代国家に包摂されていたはずのアイデンティティがよみがえりつつあります。また、狭い意味での「フランス人」「ドイツ人」が、同じ国民であるはずのムスリム移民を異物として排斥しています。

果たして、国家の枠を超えて「ヨーロッパ人」「世界人」が出現する時代が来るのでしょうか? それとも、世界は古くからの民族的アイデンティティによって解体の道をたどるのでしょうか? いうまでもなく、これは「アイデンティティ」の問題です。言い換えると、人々が「私たち」と感じる範囲はどこまでなのか、という問題です。

「私たち」を作り上げるもの

人々が「私たち」と感じる根拠には様々な要素があります。身近なところでは、同じ趣味、嗜好によって結びつく「私たち」があります。同じサッカーチームを応援していたり、同じアーティストのファンであれば、そこに連帯感、共同体意識が生まれ、「私たち」が出現します。

政党や国家をつくりあげるアイデンティティの要素としては「民族」「主義・思想」「宗教」などがあります。共通の言語、文化、生活様式のなかで育ったり、共通の理想や価値観を共有することで、非常に強固な「私たち」という感覚が生じます。もちろん共産主義が主張するように、「階級」も強力なアイデンティティを形成する要素の一つです。市民や、労働者といった共通の階級的利益を持った人たちが「私たち」として結束するのです。

このように「私たち」という感覚は、身近な趣味のサークルにはじまり、政治勢力や国家をも生み出す統合の力です。逆に、この感覚が揺らぐ時、あるいは「私たち」の枠内に収まらない他者である「彼ら」が入り込んでくるとき、社会の分断、政治の混乱が始まります。

「私たち」と「彼ら」に分かれた米国

典型的な例が米国でしょう。必ずしも、トランプが分断をもたらしているわけではありません。むしろ、分断の結果、生み出されたのがトランプです。かつて、米国は「アメリカ市民宗教」と呼ばれる共通の歴史、価値観、文化を共有する「アメリカ人」の国でした。彼らは建国の父たちの物語を誇り、キリスト教に基づく自由、勤勉、責任、奉仕、隣人愛といった価値観を共有し、感謝祭やクリスマスなど季節ごとの行事を共に祝っていました。クリスマスソングの多くはユダヤ人によって作曲され、大統領が聖書に手を置いて宣誓することに疑問を唱える人はいませんでした。白人も黒人もユダヤ人も、皆「私たち」「アメリカ人」として一つだったのです。

しかし、キリスト教が衰退し、世俗化が進む中で、もはや米国人は共通の神話も理念も持てなくなりました。敬虔なクリスチャンは、中絶や同性婚を推し進める世俗的リベラルと、共に暮らすことが困難になっています。一方、マイノリティの増加によって白人の圧倒的優位が揺らぐ中、トマス・ジェファーソンなどの建国の父ですら「奴隷所有者」として糾弾されるようになりました。共和党支持者と民主党支持者、白人とマイノリティなど、彼らは、お互いを「私たち」と呼ぶことができなくなっています。「私たち」と「彼ら」が一つの国の中に生まれてしまったのです。

このように「私たち」という感覚は、「彼ら」という他者と出会う時、分断と闘争をもたらすリスクを抱えています。その際に「彼ら」をも包み込む、新しい「私たち」の根拠を見出すことができるなら、より高い次元の社会的統合を実現することができるでしょう。米国社会は、その新しい「私たち」を求めて苦闘しています。

ヨーロッパ統合を進めた「キリスト教民主主義」

ヨーロッパも事情は同じです。それぞれの国が「私たち」として独立している中でヨーロッパ統合を進めるには、ヨーロッパ全体を「私たち」と呼ぶことのできる政治勢力がなければなりません。それが、第二次大戦後に最盛期を迎えた「キリスト教民主主義」勢力でした。

彼らはカトリック教会を母胎としつつ、民主主義の枠内で「政教分離」の立場を守り、キリスト教価値に基づく政治理念の実現を目指しました。具体的には、個人を中心とする「自由主義」と「社会民主主義」の双方を批判し、個人の欲望や階級的利益よりも、家庭や共同体を基盤とする協調的な発展を求めたのです。

彼らの共同体志向と、カトリック教会に由来する「ヨーロッパは一つ」という感覚は、国家間の壁を相対的なものとしました。さらには、キリスト教的な「友愛、和解の精神」と「強力な反共主義」が、冷戦時において独仏和解を中心とした西欧の結束を加速する力になりました。彼らにとってヨーロッパは、中世以来、キリスト教文化と歴史を共有する「私たち」の家だったのです。

実際に、EUの父と言われるシューマン(仏)、アデナウアー(独)、デ・ガスペリ(伊)といった人物は、皆、キリスト教民主主義者であり、相互に協力関係を結んでいました。そして、素朴で勤勉なキリスト教徒である中産階級や農民たちが、彼らに政治的な支持を与え、ヨーロッパ統合への大きな推進力となったのです。現在でもヨーロッパ議会では、各国のキリスト教民主主義政党を中心とするヨーロッパ人民党(EPP)が最大会派となっています。

「ポスト・キリスト教」時代のアイデンティティ

しかし、80年代以降のヨーロッパでは、中産階級と農民の没落と共に、キリスト教民主主義を草の根で支えてきた信仰共同体は、ほとんど崩壊してしまいました。また、冷戦の終結とともに、「西欧の結束」の必要性も低下し、EUの東方拡大は、歴史的、文化的な一体感を薄めていきました。

EU官僚や知識人が掲げる「人権」「寛容」「多様性」などの理念は、あまりに無機質で抽象的すぎて、人々に「私たち」の感覚を与えるには至っていません。「移動の自由」や「共同市場」の優位性についての主張も、格差の拡大やテロ、難民問題によってかき消されてしまいました。

キリスト教民主主義が空洞化した後に残ったものは、もっと土着的で根源的な「民族」的アイデンティティであり、格差の感覚からくる「階級」的アイデンティティでした。これらは国の壁を超えるどころか、国内にすら分断を持ち込むものです。「私たち」の範囲は限りなく狭くなり、かつて共に暮らしていた人々の間にすら、大きな壁を築き上げています。

交通、通信が発達し、人や物、情報が自由に行き交う世界にあって、アイデンティティの縮小傾向は非常に大きな懸念材料です。果たして、ポスト・キリスト教時代にあって、米国やヨーロッパは、新しい「私たち」の根拠を見いだせるのでしょうか? それとも、世界は再び、ロシアや中国に代表される国家的アイデンティティに引き裂かれたパワーゲームの時代に引き戻されるのでしょうか? 全人類を包み込む「私たち」の根拠をどこに求めるのか、現代における最も深刻な課題だと言えるでしょう。(O)

Weekly Voice by UPF

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